うぶモード本誌で好評掲載中
アリスへの決別
〜前編〜


4月9日発売のうぶモード5月号で後編が掲載されている「アリスへの決別」。前号の3月号の前編を見逃した方のために前編を一挙公開! 5月号と併せて読めば全編を一気読みできますよ!!





曜日の午前一〇時。オックスフォード大学のクライスト・チャーチ。その最大の中庭であるトム・クワッドを見下ろす寮の最上階の窓から、僕はアリスがやって来るのを眺めていた。
 今日は大学は休みなので、キャンパスにほとんど人影はない。アリスはトム・クワッドの鮮やかな緑の芝生をひとり占めしていた。雲の上を歩くような軽やかな足取りで、この寮に向かってくる。透き通った初夏の陽射しを浴び、明るい金髪がきらめく。水色のエプロンドレスのスカートが、一歩ごとにふわりふわりと揺れる。右手には籐のバスケットを提げている。寮の入口近くまで来たところで、窓辺に立つ僕の姿に気がつき、嬉しそうに手を振った。僕も手を振り返す。
 僕は一階に降りていった。
「やあ、アリス」
「こんにちは、ドジスン先生」
 アリスは寮の玄関ホールに立ち、天使のように微笑み、スカートの端をつまんであいさつした。小さなレディのしぐさは、ひとつひとつが愛らしい。
 十二歳のアリスの頭は、僕の胸の高さまでしかない。波打つ美しい金髪はカチューシャで押さえられ、額が広く露出している。僕を見上げる青い瞳は、まだ穢れを知らない。大人の女性にありがちな計算も警戒心も虚栄心もなく、ただ純粋に、尊敬と親しみの念をこめて僕を見つめている。
「これ、お弁当よ」アリスはバスケットを差し出した。「ママが先生といっしょに食べなさいって」
「ありがたいね。君のお母さんの作るチキンサンドイッチは最高だ--さあ上がって」
「グラスハウスの方? 最初に写真撮るの?」
「うん。その後でサンドイッチを食べながらお話をしよう」
「わあ、楽しみ」
 僕の部屋に入ると、アリスは先に立って、暗いオークの階段を昇っていった。案内する必要はない。もうこの寮に何回も来ていて、自分の家と同じぐらいよく知っている。
 グラスハウスは僕の専用のスタジオだ。中庭を見下ろす寮の平屋根の上に建てられていおり、僕の部屋から階段で出入りできる。温室のように全面ガラス張りで、南に面した側のカーテンの隙間から太陽の光が射しこみ、埃の粒子が小さな妖精のようにきらきらと舞っている。床は板張りで、必要に応じて絨毯を敷く。カメラや撮影用の小道具が揃っているのはもちろん、戸棚には数十着の子供用衣装が用意されている。
 この特権を手に入れられたのは、クライスト・チャーチの数学講師という地位だけでは無理な話で、作家ルイス・キャロルとしての名声や、上流階級との交際範囲の広さもおおいに関係している。それでも大学に建設許可を申請してから、実際に許可が下りるまで何年もかかった。完成したのは申請から四年後だ。
 冬でも雨の日でも写真撮影に必要な光量を確保できるのが、グラスハウスの利点だ。太陽の側の窓にカーテンをかけておくのは、室内が暑くなりすぎようにするためと、肌が焼けないようにするため、それに窓枠の格子状の影が被写体の上に落ち、天使たちの美しさを台無しにしてしまうのを防ぐためだ。
 過去に撮影した写真も何枚も飾ってある。ウィンチェスターの首席司祭キッチン卿の娘のクシー・キッチンは、中国人の格好をして箱の上に座っている。彫刻家ウェストマコットの娘のアリス・コンスタンス・ウェストマコットは、階段に座ってこちらをにらみつけている。詩人のテニソン卿の夫人の姪のアグネス・グレース・ウェルドは、赤頭巾の格好をしている。他にも僕のモデルとなってくれた少女たちは、政治家、牧師、大学教授、裁判官など、良家の子女が多い。その格好は、普段着はもちろん、ボロボロの服を着た物乞い、ネグリジェ姿、トルコ人風、古代ギリシア風、古代ローマ風など様々だ。服を着ていない少女の写真も多い。


【筆者プロフィール】
山本弘

■少女を愛するSF作家であり「と学会」会長。「時の果てのフェブラリー-赤方偏移世界-」(徳間書店)「神は沈黙せず」(角川書店)など著作多数。最新作は4月1日発売の長編「去年はいい年になるだろう」(PHP研究所)


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